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米、及び糒(干し飯)、製粉の歴史

●弥生式土器・飛鳥時代
日本の米は縄文時代後期に大陸から伝播し、その栽培技術が弥生時代に導入され、各地に広がりました。239年、登呂遺跡にはすでに米が貯蔵されていたようです。当時はこしきという蒸し器で蒸した米(強飯・こわめし)が食べられていました。この蒸し米を放置しておくと、乾いて「糒」になります。これは保存の点からは便利な物で食糧の少ない冬や、飢饉に備えて備蓄したと考えられます。また、676年、天武2年、「兵士は携帯用具の飯袋を腰に吊るす」とあることから、この頃には糒が携帯食として用いられていたようです。
●奈良・平安時代
720年、養老4年の「日本書紀」(720年)では、イネを水田種子(タナツモノ)、クリ、ヒエ、ムギ、マメを陸田種子(ハタツモノ)とし、この五穀を人間の食べ物としています。731年、天平3年には「糒・非常食として用いる。兵士は六斗(108リットル)のほしいいを持つことが定められていた」ようです。この糒の需要に対して河内の道明寺(今の藤井寺市)付 近は土器・土偶の生産地で、かつ、近くに河内平野という肥沃な米生産地を持ち、背後には奈良の大和朝廷という大消費地を持っていたため、ここで大量の糒が 製造されるようになりました。現在でも糒のことを道明寺粉と呼んでいます。糒は大阪や堺の港から船旅をする人たちの保存食、朝廷軍の兵糧として利用されま した。 この頃、坂上田村麻呂や源義家が蝦夷や東北征伐に行っていますが、その背景には米栽培地の拡張が意図されていました。そして新しく入手した耕作地 では寒冷地向けに稲の品種改良が進められました。
米穀粉の利用は遣唐使により唐の文物が伝えられ、小麦粉や米粉で型をつくり、油で揚げた煎餅や環餅(まがり)のような唐菓子(からくだもの)が伝わったとされています。この唐菓子の移入以降、穀物を加工した日本の菓子作りが始まりました。石臼もその頃に伝来しました。しかしながら、石臼は高価で高僧、貴族など特権階級のみが所有できるもので、一般には従来からの木の杵と臼で製粉(胴搗製粉)されていました。
●室町・戦国時代
室町時代になると高僧、貴族のみならず、守護大名など武家の間にも茶の湯が広がり、石臼は茶を挽くのに利用されるようになりました。ただ、米、麦粉の菓子は宮中や神社・仏閣での神饌に供される程度で、お茶のお菓子に用いられるところまでには至っていませんでした。
戦 国時代末期になると糒の用途はもっぱら軍の兵糧となり、各戦国大名はその確保に努めました。明智光秀か西国出陣に対し、京の者たちから糒の寄進を受けて喜 んだとか、豊臣秀吉が兵火で炎上した道明寺を直ぐに再建させ、糒を確保したとか、朝鮮出兵の際には沿岸諸城に糒を備蓄せよと指示したことなどが見られま す。また、この頃には石臼は鉄砲の火薬作りなどにも用いられるようになり、地方に広がっていきました。

●江戸時代
やがて水車の普及で搗き臼による胴搗(どうつき)技術が発達しました。1711年、宝永8年、 灘で菜種を製粉するのに二輌の水車が利用され、菜種油流通に大きな影響を及ぼしたとされています。石臼の普及も江戸時代に入ってからのことで、うどんや蕎 麦、米穀粉の利用は庶民にまで広がりました。これら製粉技術の向上が和菓子作りを発達させ、落雁粉の需要増にも拍車をかけたようです。
一方、糒の需要は世の中が平和になるとだんだんと低下し、明治時代になるころには道明寺ではもうほとんど作られることはありませんでした。
明治以降の機械化(ロール製粉や気流製粉など)を経て、より良質な米穀粉が容易に作られるようになり、現在に至っています。

※落雁教室のブログから引用